ポークランチョンミートの日記

ポークランチョンミートです。横浜で家屋解体業務をしています。blogを始めました。

戦争①

戦争①

今、世界中で戦争が起こっている。

アフガニスタン紛争
②シリア内戦
クルド対トルコ紛争
リビア内戦
⑤イエメン内戦
ウクライナ侵攻

2度と戦争はしたくない。しかし、日本のやり方だと何れ戦争が起こる。日本人は、沖縄戦もそうだが、それ以前に琉球王国で大量虐殺、沖縄戦でも大量虐殺し、仕舞いには琉球王国の乗っ取りで強制的に沖縄返還を果たした。これにより3度の屈辱を受けた。
 これより「琉球政府の時代」。 1945年の沖縄戦から1972年の日本復帰までの間、琉球政府は、琉球における政治の全権を行うことができるものの、米国民政府の布告・布令・指令に従うこととされました。
 ですから、私達の時代から復帰する間に生まれた方は、沖縄生まれではなく、琉球生まれの沖縄育ちと言えます。
 もう、戦争は、終わった。2度と戦争をしたくないと望むなら、日本人は、沖縄を解放し元の琉球に戻すべきである。現在の沖縄は、日本人のものではない!勝手に名前を付け、勝手に支配しただけの話しである。「知るは地獄、知らぬは天国」、他国から日本は豊かな国で行ってみたいと話しているが...。
 映画での「世界残酷物語」と同様に沖縄戦は「日本残酷物語」なんです。これは、日本だけではありませんが、若い方々は、写真だけでなく、自身に実像化させて日本の美学だけでなく、このような汚学も後世に伝えて行くべきです。戦争は、人間を化物に変身させてしまいます。あってはならない事なのです。
 こういう身勝手な行動が、今、世界中で戦争になっている。こんな事をいつまで繰り返すつもりですか?日米交流でアメリカが日本を助けると思いですか?
 かたや中国は朝鮮との交流を進行させている。万一、この中国朝鮮が立ち上がれば、日米共に全滅です。現在の沖縄の基地問題も日本人は、解決する事を一切年頭に入れておりません。何故なら、米軍基地撤去、そんな事をしたら日米交流が破壊となり、アメリカは日本に一切手をかけなくなる。
次回へつづく。
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沖縄戦


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今から78年前、日本はアメリカなどと戦争をしていた。 沖縄戦は、アメリカ軍が1945(昭和20)年3月26日、那覇市の西にある慶良間諸島(けらましょとう)に上陸して始まりました。日本の島々を奪った米国は、次に沖縄本島を占領して、日本本土を攻めるための前進基地として使おうと考えていた。4月1日に沖縄本島中部、読谷村(よみたんそん)に上陸し、北と南に分かれて進みました。南に向かったアメリカ軍は、日本軍の本部があった首里城(しゅりじょう)をめざし、軍を進めました。これに対し日本は、日本本土を守るため、沖縄本島になるべく米軍を引き留めて時間を稼ぐ「持久戦」の作戦をたてた。 こうして起きたのが「沖縄戦」だった。
 そもそもアメリカが、何故、沖縄を前進基地にしたか?
 理由は二つ。
①日本本土を攻撃する前線基地となりうる  
 読谷飛行場(北飛行場)があった事。
②攻撃を支えるために必要な物資の荷下ろ
 しができる浜があった事。

沖縄戦は、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦う、というだけではなかった。沖縄戦では、10代前半の子どもも含む住民が、足りない軍人の代わりや手伝いをさせられ
たりした。その中でも酷いのが、5歳の男の子に短銃を持たせ、「一人でもいい、アメリカ人を撃ち殺してこい!」と。従わない場合は、その場で銃口を口に入れ、銃殺。軍人も、武器をもたない住民も、混在したまま地上戦が続いた。日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていった。こうしたことから、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたといわれる。
 戦争は、今も尚、世界各地でおきている。日本が悪い!アメリカが悪い!ロシアが悪い!中国が悪い!朝鮮が悪い!こんな事言ったって切りがない!皆が悪い!のよ。
 弱肉強食の時代はもう、終わった。これからは、二度と戦争を起こさないように皆が手を取り合って、「押しより引き」が肝心なので自国から率先して行動するべきである。絶対に解りあえる。醜い争い等、この地球上には、必要ない!必要なものは、「平和」ただ、一つである。自国同士で助け合い、他国人も入り混じりながら、互いに助け合い、「平和」は勝ち取るのものではなく、「平和」は、皆で構築するものである。
それには、ごく一部の人だけではなく、顔見知りの方も全く知らない同士の方でも皆で手を取り合い、皆で語り合い、皆で「平和」を構築していく事が大切なのではないでしょうか?

琉球王国


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沖縄県琉球王国という独立した国で1429年から1879年の間に存在した 。1429年以前の琉球王国沖縄本島は中山(英祖王)、北山(怕尼芝)、南山(承察度)という3つの勢力が争っていて、三山時代と呼ばれています。このうち、中山が北山と南山を征服し、沖縄本島を統一しました。

 この沖縄本島を統一した中山の尚巴志(しょうはし)という王が中国の明の皇帝(朱 元璋)から冊封を受けます。この冊封により、琉球という王国名と琉球王という爵位と尚という名字を賜ります。

 つまり、琉球王国の生みの親です。元々、琉球とは明側の今の台湾(中華民国)と沖縄県周辺の呼び名であり、そのまま琉球王国と名付けられたのでした。これが琉球王国の名前の由来です。

 江戸時代になると、薩摩藩琉球支配を強化するために、強硬な手段に出ます。

 1609年に薩摩藩の島津氏が、平和な国で明との威光による貿易を盛んに行動する琉球王国に腹を立て、琉球との貿易利権の独占を狙い、琉球王国に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求。王国側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあった。

 1609年3月初旬、薩摩軍は約3000人の兵と100隻の軍船により、琉球に進攻した。鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を次々と攻略し、3月25日、沖縄本島北部・運天港に上陸し、27日には今帰仁城を陥落させた。3月29日、読谷に到着した薩摩軍は、陸路と海路から、4月1日には那覇首里に到着した。琉球軍も抵抗したが、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力を持つ薩摩軍を相手になす術もなく、4月5日、琉球国王・尚寧が降伏を申し入れ、首里城は占拠された。5月15日、尚寧以下重職にあった者達は薩摩に連行され、翌年の1610年、島津家久は尚寧をともなって徳川家康・秀忠に謁見した。

 これにより琉球王国は、 薩摩藩に従属させられ、その後、明治になって、吸収合併される形で日本となり、琉球藩を経て、廃藩置県により沖縄県となりました。

 明治5年(1872)、大蔵大輔の井上馨が、琉球国の領地と人民を日本政府のものにするという建議を日本政府に出し、これが通ります。こうしていわゆる「琉球処分」が行われ、外国との直接交渉は禁止、琉球国王尚泰藩知事となり、ほかの大名と同じ扱いになっていくのです。結果、琉球国王は君主としての立場は失われ、家系は日本の華族として継続することになりました。

 さらに、明治12年(1879)になると、日本政府が軍隊300名余と、警官160余名を派遣して首里城に入城、城を明け渡させて、廃藩置県を布告します。このような強制的な形で、明治27年(1894)に日清戦争が勃発、日本が勝って台湾の割譲に成功します。台湾が日本の領土になる以上は、その間の琉球奄美諸島など南西諸島はもちろん日本の領土ということになったわけです。 琉球は日本の領土になるのです。

沖縄という名前。これは、薩摩藩が沖に出て大漁に魚が取れることから、最初は、「沖網」でしたが、あまりにも違和感があるため「沖縄」に命名したのである。いずれにせよ、薩摩藩が勝手に名付けた名前です。